なにもわからない

 クリスマス・イブだというのに僕はオフィスに残って仕事をしていた。昼休みに上司から帰っていいというメールが入ると、同僚は喜んで家路につき、午後はずっと静かだった。  どうしても急ぎで終わらせなければならない仕事があるわけではない。異国でクリスマス・イブにひとり、なにをすればいいのか。アパートに帰るのも街に出るのも億劫だった。  セキュリティー以外にはもう誰も残っていないのだろう。ビルのなかは暗く静かだった。机の上には、内容も見ずにサインをしてしまったメモとか、もうニューヨークの本部に送ってしまった予算案のコピーとかが、この一年必死で働いてきた僕を嘲笑うかのように雑然と広がっている。間違いを見つけたところでもう手遅れのものばかりなのに、A4の紙を一枚ずつチェックしていく。僕はその意味のない作業に没頭していた。  ふと小さな音が気になって書類から目を上げ、コンピュータの画面を見つめる。何も動いていない。まるでフリーズしているみたいだ。それなのに、コン、コンという規則正しい音が聞こえてくる。コンピュータ・ウィルスにやられたのだろうか。  いや、違う。音は廊下のほうからだ。誰かがゆっくりと近づいてくる。音が止まる。僕はドアのほうを振り返った。アルフィアという名前のビジネス・プロセス・アナリストだった。 「あら、クリスマス・イブにこんなところでなにをしているの?」 「ああ、あの、仕事って言いたいところなんだけど。なんていうか、その、なんとなく帰りそびれたっていうか、そんな感じかな。それより、きみこそ、なにをしているの?」 「忘れ物を取りに来たの。そしたら、ここだけ電気がついていて、それでなにかなって。あっ、そうそう、メリー・クリスマス」  アルフィアが微笑みを見せた。 「うん、そうだね、メリー・クリスマス」  僕もつられて微笑んだ。 「まだここにいるの?」 「えっ?」 「だから、まだ帰らないの?」 「うん」 「うんって?」 「うん、もうすることはないんだけれど」 「じゃあ、帰ったら?」 「帰る?」 「ええ、もう、あなたの他には誰もいないわ」 「帰るって、どこに?」 「どこにって、あなた、住所不定?」 「住所はあるけれど」 「そうよね。どこ?」 「セルヴェット」 「ああ、じゃあ、同じ方向じゃない。途中まで一緒に行きましょう。ねっ、いいでしょ?」  僕はあわててPCをログ・オフし、アルフィアと一緒にオフィスを出た。クリスマス・イブだというのに街はとても静かだった。 「もうみんな、クリスマス・イブのディナーを楽しんでいる頃かしらね」  アルフィアが言った。クリスマス・イブのディナー。みんなどんなものを食べているのだろう。暗い部屋。暖炉。クリスマス・ツリー。暖かい火の通った料理。ケーキ。僕は暖炉の前のアルフィアを想像した。暖炉の火がアルフィアの目に映り、僕がそれを眺めている。  ふーっ。僕は首を横に振った。ありもしないことを想像するのはもうたくさんだ。そう思った。横を見ると、アルフィアが笑っている。僕はその笑顔を見て、とても嬉しかった。最高のクリスマス・プレゼントだと思った。 「あまり話さないのね」 「えっ?」 「退屈?」 「そんな。こうして歩いているだけで、幸せな感じだけど」 「そうなの?」 「うん」  僕たちは並んで歩き続けた。そして僕のアパートの前でさよならを言った。  僕はアパートでひとりだった。冷蔵庫のなかにはたいしたものは入っていない。飲むものも水しかなかった。僕は水を口に含ませた後、ベッドに入って布団を被った。アルフィアの笑顔が浮かんできたけれど、それはすぐに消えた。  つっぱって、つっぱり続けて、こんなところに辿り着いた。働いても、働いても、いいことなんかない。努力しても、努力しなくても、わからないことばかり。知り合いはたくさんいるけれど、友達はいない。セックスの相手はいても、一緒に創造したり分かち合ったりするような相手はいない。  近所から話し声が聞こえてくる。思いは遠い日本に飛ぶ。おにぎり。海苔巻き。お稲荷さん。おにぎり。海苔巻き。お稲荷さん。  うとうとしていると、遠くから呼び鈴の音が聞こえてくる。呼び鈴。呼び鈴。あっ。僕は慌てて起き上がり、ドアを開ける。そこにはアルフィアが笑顔で立っていた。黒いコートの下からすこしだけ見える赤いドレスが眩しい。 「あっ、着替えたんだ」  びっくりしたものだから、そんなことしか言えない。 「どう、似合う?」  アルフィアがコートを脱ぎながら言った。 「うん、素敵だ」  白い肌がまぶしい。 「そう?ありがとう」 「あれ、でも、どうしたの?」 「どうしたのって?」 「だから、なにか用?」  アルフィアは答えない。僕は、なにかまずいことでも言ってしまったのかと思って会話を思い返す。どう考えてもまずいことは言っていない。 「あの、なんで来てくれたの?」 「いけなかったかしら」 「いけない?まさか」  はーっ。僕は大きく息をした。夢のなかに違いないと思ったのだ。アルフィアの目はキラキラと輝いていた。 「ねえ、ちょっとだけ歩かない?」 「うん」  僕たちは外に出て、オフィスとは反対の方向に歩き出した。街が星に包まれている。そう思えるくらい、空は星でいっぱいだった。 「ありがとう」  僕はアルフィアにそう言った。クリスマス・イブにひとりでいるから、かわいそうだと思って連れ出してくれたのだろう。アルフィアは僕を見て微笑んだ。でも、なにも話さない。僕も黙って歩いていた。隣を歩いているというだけなのに気持ちがよかった。  突然、アルフィアが足を止める。 「私が住んでいるのはあそこ」  そう言って、ローザンヌ通りに面したオフィス・ビルを指差す。  大きな球形の建物が、そのオフィス・ビルに付属するようにして建っている。今にも転がって行きそうなボールを、四角いビルがどうにか繋ぎ止めている。どう見ても、そんな感じがする。  僕には、アルフィアがそこに住んでいるということが、なんとなく奇妙に思えた。僕はそのボールのような建物のこともオフィス・ビルのことも、なにも知らなかった。  オフィス・ビルはビジネスの匂いを放っている。入口にはテナントの名前がずらりと並んでいる。隣に変な形の建物がなければ誰も気に留めることはないだろう。なんの変哲もない雑居ビルだった。  ボールのような建物には「聖マリア教会」という名前が付いている。教会だったのだ。その変な形はやっぱり気になったけれど、僕はその時その建物のことを、モダンなカトリック教会なのだと考えた。 「なかに入ってみない?」 「なか?」 「ええ、今日はクリスマス・イブだし」  僕は答えが言葉にならず、アルフィアの目を見ながら首を縦に振った。アルフィアと並んでボールのような建物の前に立つ。胸がどきどきする。なかはどんなふうになっているのだろう。外見が普通でないからといって、なかが普通でないとは限らない。ステンドグラスと十字架があり聖なる者たちが優しく微笑んでいるというような、ごくあたりまえの暗い空間かもしれない。僕はその建物を見上げた。  アルフィアが僕を見て、いたずらっぽく微笑む。首を振って入れという合図をする。僕はドアに手をかけ、手前に引いた。ドアは重い。アルフィアとふたりでなかに入ると、奥にもうひとつ、ドアがある。ひとつ目のドアを閉める。アルフィアは相変わらずいたずらっぽい目で僕を見ている。僕はふたつ目のドアに手をかけた。  ドアを開けて、僕は自分の目を疑った。教会というよりはショールームといったほうがいいような空間が目の前に広がっていたのだ。 「なにが見える?」  アルフィアが隣で聞いた。 「なにって、きみにだって見えるんでしょ?」 「ええ、でも、あなたにはなにが見えるの?」 「だから」  僕は一呼吸置いた。 「だから、先端技術のショールームみたいなものが見えるけど」 「あっ、そう。そんなものが見えるの。えーと、私にはね、私には、海と、それに砂浜と、空と雲と、そんなものが見えているわ」 「えっ、なに?」 「なにって?」 「違うものが見えるの?」 「ええ、考えていることが違えば、違うものが見えるは当然じゃない?」 「そんな」  僕は教会のなかを見回す。明るいショールームにしか見えない。 「ここは自由博愛教の教会でね。だから、なにがあってもおかしくないの」 「自由博愛教?」 「ええ、知らない?」 「うん、初めて聞く」 「ふーん、知らなかったんだ」 「きみ、ここの、いや、その、自由博愛教の、信者?」 「信者ねえ、まあ、そうとも言えるかしらね」  突然、下のほうから沸きあがるようにして、男のものとも女のものともつかない声が聞こえくる。 「この世の中は情報で溢れかえっているが、情報自体には善も悪もない。道徳のある人間に渡った情報は善になり、道徳のない人間に渡れば情報は悪になる」  どこから聞こえてくるのかわからない。なんとなく不気味な声だ。 「なんだ、これは?」  僕はひとりごとを言った。 「どうしたの?」  こんどはアルフィアの声がした。僕はなんとなくほっとした。 「変な声が聞こえてきたんだ」 「ああ、それはたぶん、あなただけに聞こえる神の声だわ」 「神の声?」 「ええ、そう」 「きみにもなにか、聞こえるの?」 「ええ、波の音がするわ」 「波の音?僕には聞こえないけれど」 「それは、あなたと私が違うからだわ」 … Continue reading なにもわからない